ひとりごと
どうも。
初めての記事ですが、僕はこの記事だけでこのブログを終えようと思っています。
いろいろ考えたのですが、僕は考えていることを一度だけ吐き出したくなったのです。
ですから、どうかお付き合いください。
日付が変わる頃、いつもならこの時間は薬を飲みぐっすり寝ているのですが、キーボードを叩くことにしました。
テーマは
健やかで元気なマジョリティが大嫌い
この記事を読まれている方がどういった方々なのかわかりませんが、あなたが僕がこれから書く「マジョリティ」なら、その人たちには攻撃的になっています。
この記事を「精神病者の戯言」と片付けるようなら、もしくはこれに同情するようなら、それらこそ僕が「あなたたちマジョリティが大嫌いな理由」です。だから読め。黙って読め。
では、そもそも僕が「不健康で」「陰鬱な」「マイノリティ」である理由から書いていきたいと思います。
僕は精神を病んでいる
前置き
※これから書くことは僕の個人的考えに基づくものであり、他のメンタルヘルスにかかっている方々が同じことを考えているわけでは一切ありません。くれぐれも拡大解釈しないでいただきたい(もっともマジョリティたちはそういうことをするのでしょうが。だから僕は彼ら、もしくはあなた方?が大嫌いなのです)。
僕は昔からそうだった
僕の病は双極性障害Ⅱ型です。病名を書くか迷いましたが、その方が後の章で楽なので書いておきます。病気の詳細は後で軽く書きます。そして、繰り返しになりますがこれから書くことは僕自身の話であり僕の考えていることです。それはお忘れなきよう。
発症前から僕は精神的マイノリティの気質を持っていました。
生まれたときから多感で、周りの子と上手く馴染めず、小学生ながらメンタルに異常を来して教室にいられない時期もありました。それは中学でも続きました。
高校では受験ノイローゼになり、周囲の人に疎まれました。
幸い志望校には合格し、そこでのキャンパスメイトとの付き合いはそこそこ楽しかったですが、それでもやはり周囲からの疎外感は拭いきれませんでした。
今の病気になった
大学入学から半年して今の病気になり、それからは薬を飲みながら、留年しながらも何とか学部は卒業しました。とは言え就活などできるわけもなく、今は実家に戻り「療養」と称してニート生活を送っています。
この現状を完全に把握しているのは家族以外はいません。
同居する家族、特に両親は、僕の「現状」を周囲に一切知られたくないようです。
「現状」
その「現状」というのは、一日の流れを書けばわかりやすいと思うので以下に示します。
- 10時 起床、服薬
- 12時 カップ麺で昼食
- 13時〜17時 寝る
- 18時 家族の帰宅前に家事を済ます
- 19時〜23時 家族の前でニコニコ
- 24時 薬を飲んで就寝
まあ、こんな感じです。こんな生活を1年前に実家に戻ってからずっと送っていました。
いました、と言うのは、一週間前にとある新薬を処方され、それからは非常に調子がよく、朝早く起床して家事を手伝い日中勉強し夜は一家団欒で入浴そして寝る、という生活を送っている、というか、「いた」からです。
これも過去形になってしまった理由は、次からの章に譲りたいと思います。
幾度とない繰り返し
波
双極性障害の軽い説明が必要になったので手短に書きますが、これは躁状態とうつ状態を波のように繰り返す病気です。詳しいことが知りたければ自分でWikipediaでも読んでください。元気なマジョリティならそれくらいできるでしょ。
僕はたまたまこの「波」の周期が早く、この半年だけで躁とうつの変化を5回は経験しています。これより多い方も恐らくいるのでしょうが、それでも僕は早い方だと思います。一応紹介しておけばこういうのをラピッド・サイクラーと言います。これも気になったら勝手に調べてください。
落ち込みと最近の回復
そんなラピッド・サイクラーな僕は、薬で調整していても躁とうつの変化を繰り返してきました。
正直「薬を飲んでもこれなら意味は無いのでは?」と思うときはかなりありましたが、それでも医者と薬を信じて、国の力を借りながら医療費を払い今までやってきました。
ですが、2月にひどいうつ状態に陥り、強い薬を出され少し回復したもののその眠気で動けず自己嫌悪が深まりうつが悪化、さらに強い薬を出されさらに眠気が強まり自己嫌悪も強まり…。
この2ヶ月間はこんな調子で、ほとんど寝ているだけの生活を送ってきました。
一度だけ大量服薬で死ぬことを試み、全く意識がなかった日もありました。救急車を呼ぶ寸前まで行ったようですが、僕が床に伏せながら止めたらしいです。理解不能。
ただ、先述の通り最近になって劇的に現状を回復させる新薬を服用するようになり、それからは「健康な」暮らしを送れるようになりました。
両親も安心、医者も安心、僕も安心、Brilliant!
毎日訪れる絶望
しかし、この薬を服用して翌日からすぐ僕は元気になったのですが、その夜一気にうつ状態に落ち込みました。
そんな馬鹿な、と新薬と抗うつ薬を服用し一気に眠りにつく。
翌朝起きると元気ハツラツ、バリバリ動ける。しかし夜になるとまたうつになる。
また新薬と抗うつ薬を飲んで眠りにつく。
そして翌朝また元気になる。しかし…。
こんなことを一週間ほど繰り返して今日に至るのですが、僕はこの日々にうんざりしてしまいました。
今まで、ラピッドとは言ってもそこそこの間隔で躁とうつの変化を経験していただけまだマシだったのですが、今は毎晩のようにうつへの急落が起きる。
毎晩絶望が訪れる。
この激しい変化に、僕は心底疲れてしまいました。
そしてついに今、病気になってから初めて、僕は薬を飲まずに夜を過ごしています。
どうなれば「楽」なのか?
この繰り返しの果てに僕はうつ状態であり続けることを自ら選んだわけですが、これは僕が一番「楽」だからだ、と思ったからです。
急上昇と急降下を繰り返すことよりも、うつ状態の方が「楽」。
うつ状態が一番しんどいと思うマジョリティの方は多いと思いますが、双極性障害にとって一番つらいのは「躁転」と「鬱転」のタイミング。そのときに比べれば、「天井」か「底」のときの方がまだ幾分か楽です。
それが毎晩のように繰り返されるとなれば、病歴6年の僕言えど耐えられませんでした。
では、どうすれば「楽」なのか?
ここから書くことは、僕の中で最近起きたパラダイム・シフトなのでさらに読みづらいことになるかと思いますが、どうかお付き合いください。特に「マジョリティ」はね。
全てマジョリティが悪い
なぜ苦しむのか?
僕は(恐らく新薬による)毎日の鬱転のタイミングに、僕自身が鬱転・うつ状態のときに苦しむ理由を考えるようになりました。
「つらい気持ち」というのは、脳の中の出来事とは言え心の奥底から湧き起こるもの。それは事実だと思います。
が、その根本原因を深く深く掘り下げていく過程で、昔読んだアドラー心理学の本での一説を思い出しました。
「人間の悩みは全て対人関係の課題である」
アドラーが、僕のような人間の解釈を意図していたのかはわかりません(心理学者ですから、もしかすると意図していたかもしれませんが)。
ですが、この言葉によって僕の思考は一気に変わり、うつ状態の中で怒りの炎が燃え上がりました。
「マジョリティ」とは?
偏にマジョリティマジョリティと言ってきましたが、ここではっきり定義しておきましょう。
僕の中での「マジョリティ」とは、一番上を満たした上で1〜5のいずれかを満たす人々。
- 全く健康で自分の身体・精神に問題がない
- 無理解で興味がない
- 無理解で見下している
- 無理解で憐れんでいる
- 理解したつもりになって憐れんでいる
- 理解したつもりになって見守っている
このままだとめちゃくちゃなので、順を追って見ていった方がいいでしょう。
「健やかで元気」であることを当たり前と思う人々
まずこれが大罪の一つ。
マジョリティは自らの身体・精神が健康なことを全く自覚していない。
好きなように飲み食いし、不摂生し、薬を飲まずに済んでいることを当たり前のことだと思っている。
「酒は飲み過ぎなければいい」ことが常識だと思っている。
「夜更かしをしても大して問題ない」ことが当たり前だと思っている。
「薬は熱を出したときに飲むもの」だと口走る。
彼らは、抗うつ薬を飲んでいるときに酒を飲めばひどいことになり、生活リズムを崩せば精神衛生を悪化させ、何とか生きるために薬を飲み続けている僕の存在を考えもせずに、のうのうと生きている。
「忖度」を流行語と話題にし、軽々しく使っていながら「当たり前の生活」が欲しくてたまらない僕の気持ちを全く忖度していない。
そんな愚鈍なマジョリティが、僕は大嫌いだ。
無理解な人々
前提条件の説明をしたところで、1〜3について見ていきましょう。
随分長くなってきましたがまだ続きますよ〜何とかついてきてください。
とは言っても、それぞれの「無理解」は意味合いが全く異なるので、小節で見ていきましょう。
無理解で興味がない人々
この中での嫌いランキングで言えば最下位。でもそれで許されるわけではない。
端的に言えば「双極性障害?ふーん」で終わる人々。「無理解」の言葉通りです。
興味が無いため、無理解のままでいる。
これは僕が打ち明けた中で大半の人間が当てはまりました。
経験談を交えた方がわかりやすいと思うので、以下。
大学入学からとあるサークルに所属していた僕は、病気の発症にともなってサークル活動に参加することが難しくなった。詳細な病名を言う必要はないと思いながら、上回生に「今後サークルに顔を出すのが難しくなる」ということだけを伝えた。
すると彼は詳しい理由を求めてきた。僕は持病が悪化した、と適当にお茶を濁したが、それでも食い下がってくる。
諦めて双極性障害であることを打ち明けると、彼は一言。
「双極性障害?ふーん」
「それでサークルに出れなくなるの?」
とまあ、こんな感じ。
今だったらボコボコに殴ってから簀巻にして川に放り込んでやりたいところですが、彼は僕に殴られることすらなく今ものうのうと暮らしているのでしょう。明日電車でうんこ漏らさないかなあ。
数あるものの中からあからさまなものをピックアップしましたが、経緯はどうあれ、病名をこちらから聞き出しておきながら無理解のままの人々はかなり多い。
ある意味尊敬しますが、心底失望したのは
「病気ね。元気になったら連絡ちょうだい」
これのどこに腹が立つか、あなたにはわかりますかねえ…?
無理解で見下している人々
嫌いランキングなら第4位。意外かもしれませんが、4位なんですよ。
これは想像が一番しやすいでしょう。「精神病なんだ(笑)」。
今の僕ならこの言動だけで鈍器でぶん殴るレベルですが、うつ状態では怒るどころか絶望したので、あいにく鈍器を持ち出すことはできませんでした。
先程のような経験談を出すまでもないでしょうが、少しだけ。
病気の初期に一度だけですが、真正面から貶され叱責されたことがありました。
「それはお前が弱いからだろ」
「軟弱だから精神病なんかになるんだ」
これが自己嫌悪の根源になったのかもしれません。今思えば、ですが。
無理解で憐れんでいる人々
これは第3位。そろそろこのランキングの結果が見えてきたんじゃないでしょうか?
「精神病なんだ〜かわいそう」「大変だね」というような言葉をかけてくる人々。
「『た い へ ん だ ね』じゃねえんだよしばき倒すぞ!!」と叫んでしまいたくなりますが、これはさすがに理不尽すぎるのでする気はありません。
確かに、本人は僕のことを気遣っているつもりでこういった言葉をかけて(くれて?)いるのでしょうが、僕からすれば腹立たしくて堪らない。
結局は「同情」なんです。同情っていうのは相手を下に見ているからするものなんです。この理屈わかります?
そういう意味では「見下している人々」と同族なのですが、彼ら以上に許せない点は自分は相手の気持ちをわかっていると思い込んでいるところです。
「自分は相手のことをわかっていて、だから優しい言葉をかけているんだ」
という、さも自分は優しい人間であるかのような思い込み。
本当にわかっているのか?
僕と別れてから「双極性障害」と検索してWikipediaを読むのか?
その上で僕を憐れむ覚悟はあるのか?
そういうことです。
だから、僕は憐れみの臭いを嗅ぎ取ったらその人間から一気に距離を取ることにします。
「あ、こいつ僕のこと下に見てる」
少なくとも当座はそうして第3位の引き出しに放り込んでおきます。そこからどうするかは僕次第。
理解したつもりの人々
さて第3位まで見てきたので残るは1位と2位なわけですが、どちらにも共通するので「理解したつもり」とは、というところから始めましょう。
理解したつもりになって憐れんでいる人々
これは第2位。このランキングも終盤です。
3位の「無理解で憐れんでいる人々」と同義ではないか?と思われたかと思いますが、違います。
「理解したつもり」とは、僕が双極性障害であることを打ち明け、そのことを知って「何かしらの手段で調べ、程度の差はあれど病気について理解し、僕の現状を理解した」ということです。
「これは『理解したこと』ではないか」と思うかもしれませんが、そうじゃないんです。
僕の言う「理解」とは「僕の気持ちを理解すること」なのです。
病気について調べ、なんなら論文まで読んでどういった薬が効き、どういうことをすれば安定するのか(双極性障害は慢性で寛解までしかいかないので)を知り尽くしたとしても、それは「双極性障害を理解した」のであって「双極性障害で苦しむ僕を理解した」ことにはならないのです。
それにも関わらず、ちゃんと調べたことによって「自分はこの人のことをちゃんと理解している」という思い込みをさらに強めている。そういう点で「無理解で憐れんでいる人々」よりさらにタチが悪いのです。
「憐れむ」ことについては第3位で書いたのでもういいでしょう。
あえて例を挙げるとすれば、病気を経験せずに患者を診る医者でしょうか?これはあまりにも理不尽ですが。
しかし、そういう人々が僕の病気を病気たらしめている。これは後に譲りましょう。
理解したつもりになって見守っている人々
第1位。ここまで書けば僕の理不尽なランク付けの真意も理解していただけると思います。
「病気について徹底的に調べ僕の病気を理解し僕のことを理解したつもりになった上で見守っている」人々。
その上で「僕の病状が回復し、健康になることを信じている」人々。
その「信じる」という行為こそが自己欺瞞であり、最も傲慢な行いなのです。
それこそが僕を一番苦しめている。そして、そのことを忖度した上でまだ信じ続けている。
だから、僕は彼らが一番嫌いなのです。
そもそも、第2位までの段階でマジョリティの99.999...%はすでにふるい落とされています。
結局、他人では「つもり」であっても相手を理解して完全に寄り添える人間なんてほとんどいません。
つまり………
マジョリティが基準
さて、長々とランキングにお付き合いいただきましたが、最後にもう一つ論点を。
それはマジョリティが基準になっているということです。
仮に、の話ですが。
ほぼ全ての人間の体が、猿のように毛で覆われていて、寒さと無縁だったとしましょう。
その中で、今の人類のように毛がほとんど生えない人々がいたとする。
そういう人々は、冬はコートやマフラーがないと生きていけない。
そうなったとき、そういう「マイノリティ」はどういう扱いを受けるでしょうか?
もうおわかりでしょうか。
つまり、全てはマジョリティが基準なのです。
もし「いわゆる」双極性障害の人々がマジョリティだったら、「今のマジョリティ」は病気、とは行かずとも、少なくとも異端に見られるのではないでしょうか?
そういう考えに至らず、一概に病気だと見なす。
そんな愚鈍なマジョリティが、僕は大嫌いだ。
まとめ
ここまでおよそ7,000文字、よくぞここまでついてきてくださいました。貴重な時間を本当にありがとうございます。心から感謝申し上げます。
ただ、これは被害者面をした「言いがかり」に過ぎないのでしょう。
「心の底では見下している」だとか「僕の気持ちを理解していない」だとか、これは彼らの善意を踏み躙る発言なのだと思います。場合によっては愛情にすら唾を吐いている。人として許される行いではないでしょう。
ただ、どうであれ当人にならないとわからないのです。
自らがマイノリティになり、苦しみを理解した上で、何かしらの声をかける。
そういう前提があれば、僕は何を言われても受け入れるでしょう。
また、マジョリティ基準がどうこうという話も、今の時代では仕方がないことなのだと思います。
マジョリティの作った社会でマジョリティのように生きられない人間は、マジョリティからすれば病気で、そう見なされても仕方がないのかもしれません。
ですが、その基準の上に胡座をかき、こちらを見下す人間を僕はやはり許せない。
なんなら、興味がない人間こそ腹立たしい。
そういう意味になれば、「嫌いランキング」は一気に逆転するでしょう。
結局は、マジョリティであること自体が罪なのです。
最後に
この記事はあまりにも長すぎて、ブログとしては落第点だと思います。
また、深夜の勢いで書いたので粗も多い。依然として論理はめちゃくちゃでしょう。
何より、また薬を飲んだらこの記事を書いたことを心底後悔し、恥じるでしょう。「僕はなんて馬鹿な記事を書いてしまったのだろう…」。
それでいいのだと思います。
僕は今までこういう気持ちを手記に残してきましたが、一度は世に出してみるのも悪くない。
そう思ったのです。
この記事へのリンクはどこにも貼りません。はてなブログのトップページに一瞬出るでしょうが、その後はインターネットの情報の激流の中に消え去ってしまえばいいと思います。
そして、このブログはもう更新しない。
これは人様に見せるべきものではない。
ですから、ここまで読んでしまった方は不幸だと思います。
この気狂いに付き合わされて最悪な気分でしょう。
ただ、あなたはもう、僕の「友達」だと思っています。
これをここまで読めたなら、いろんな話ができるんじゃないかな。
まあ、する気はないんですけどね。
それでは、さようなら。
*1:
何もする気が起きない。
かと言って何もしていないだけでつらい。
動けないことに対する自己嫌悪にも陥る。
余計につらくなる…。
「なぜこんなしんどい思いをしなければならないのか?」
「なぜ自分はこんな有様なのか?」
「こんな状態で生きている意味はあるのか?」
「なぜ生きているのか?」
「それでは…」